第1章 Kステーション

「……落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて」
柱の陰にかくれて、福沢祐巳はさっきからずっと同じ言葉をつぶやき続けていた。視線をしっかりと目の前にすえて。
目の前の通路を次から次へと、たくさんの人が急ぎ足に通り過ぎていく。
誰も祐巳になんか気がつかない。
――むろん、気がつかれては困るのだ。
年の瀬のあわただしい今だからこそ、人間にもスキができるというもの。
だいたいそんなときでもなければ、他人を出しぬいてどうにかするなんてこと、祐巳にできっこないのだ。
(……そう、あのときだって)
もう少し自分にすばやい運動神経があれば、――みすみす目の前で誘拐されていくのを見過ごすことだってなかったかもしれないのに。
「……あ」
いけない、いけない。
とにかくスキのできそうな人間を探さないと。
祐巳は柱のかげに身を縮こまらせると、再び視線を目の前の通路にすえた。
通路の向こうには、大きな券売機コーナーがある。それも通常の切符や定期ではない。主に外宇宙方面の長距離列車のチケットやパスを扱う券売機コーナーなのだ。
――以下に交通の発達した現代とはいえ、外宇宙までのチケットとなれば、値段だけでもおいそれと手に入るものではない。
(それも)
祐巳が目指すチケットはただひとつ、――山百合星雲行、銀杏超特急999号の切符!
「……落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて」
祐美は口の中で繰り返す。
でも本当は、落ち着いている余裕なんてないのだ。
片道一年で山百合星雲までを往復する999号に乗れる機会は、二年にたったの一回。
その二年に一回の出発が目の前に迫っている。
(どうしても、どうしてもチケットを!)

「……あっ」
ついと人の流れから外れて、笑いさんざめきながら切符売り場へと近づいていくカップル。
(姉妹人間だ!)
――永遠に革命のおきることのない、無限の姉妹の契りを約束された姉妹化人間のカップルだ。
むろん、姉妹化人間になるためには莫大なお金が必要で。ということは、あのカップルはお金持ちに違いないから。
「……やっぱり」
カップルは遠距離方面券売機の前に立った。
(……落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて)
心の中でつぶやきながら、何気ないふりをして、祐巳は人の流れを横切り、そのカップルの後ろにそっと近づいていく。
近づくにつれ、声が聞こえてきて、
「……そうね、無制限無期限の定期を――超特急999にも乗車可能な券を」
(マリア様!)
祐巳の目に狂いはなかった。――失敗は許されない。
券売機がカシャカシャと処理音を立て始めた。
――――ピーッ。
定期券が吐き出された。カップルの一人が手を伸ばす。――
(ごめんなさい!)
きっといつか、このお詫びはしますから!
「えーーいっっ!」
「きゃあああ!」
祐巳は全身の力を込めて女の子を突き飛ばし、定期券を奪い取ると、わき目も振らずに逃げ出した。
――一瞬おいて、
「ど、どろぼーーっ!」
「あの子をつかまえて!」
後ろから声が聞こえてきたが、すぐに遠ざかって聞こえなくなった。
(だいじょうぶ、いけるわ!)
この人ごみの中だ。小柄な祐巳を探し出すのなんて簡単なはずはない。

――と思ったのだけど、
「お待ちなさいーーっ!」
「ど、どどどど」
どうしてこんなところに姉妹ポリスが!
(って)
そういえばあちこちに「年末厳戒態勢中」って張り紙がされていたくらいだから、Kステーションのような人の集まる場所に厳戒態勢が敷かれていても不思議ではない。
とはいえ、こんなに簡単に見つかって追いかけられなくたって。
(も、も、も)
もう少し速い足がほしい!
ステーションの橋から端まで逃げ回って、さすがに祐巳は息が切れてきた。
(――あ!)
通路のかげに小さなビスケット形の扉が見えた。
あまり目立たないあそこに逃げ込めば、
(少しはごまかせるかもしれない)
祐巳は大急ぎでその扉に近づいて、扉を開けようとして、――
「きゃっ!」
扉のほうから開いて、中から人が飛び出してきて、
「……まあ」
祐巳はその人に真正面からぶつかってしまった。
「……うう」
「あなた、大丈夫?」
心配そうな声に祐巳は顔を上げて、
「あ……」

その瞬間。
祐巳はいま自分が何をしている最中だったのか、思い出せなくなって。
だって、
(なんて……きれいな人だろう)
肌は雪のように白く、唇は血のように赤く、青みを帯びた黒い瞳は何もかも見通しているような。
その美しい面立ちを、腰の半ばまでも過ぎた長い黒髪が包み、身には黒いコートをまとい、頭に黒い帽子をいただいている。
どことなくさびしげな、でも不思議に凛然とした雰囲気を漂わせてその人は言った。
「あなた」
「は、はい」
「あなた、タイが曲がっていてよ」
「え?」
タイ?
と、白い繊細な手がすっと祐巳の胸元に伸びてきて、
(ああ)
〈タイ〉って胸元のネクタイのことかとはじめて気がついた。たしかにここまで駆けに駆けに駆けづめに駆けてきて、タイも何もあったものじゃない。
その女性は手馴れた様子で祐巳のタイを結びなおすと、
「身だしなみには気をつけてね。姉妹の契りのあるところ、必ずマリア様は見ていらっしゃるわよ」
「――−そのとおり、マリア様だけではないわ。われわれ姉妹ポリスも見張っている!」
(あっ!)
いつの間にか、祐巳を追いかけていた姉妹ポリスの面々が後ろにずらっと控えていた。
「あ、ありがとう、ごめんなさい、ごきげんようっ!」
おおあわてで早口に挨拶をすると、祐巳はあわてて逃げ出した。
「あ、こら、待ちなさいっ! 今度こそ逃がさないわよっ!」
姉妹ポリスたちも追いかけてくる。
(いやーっ)
悲鳴ももはや声にならない。そろそろ体力の限界だ。

「はあ……」
祐巳はトイレに逃げ込んで一息ついていた。
でも発見されるのも時間の問題だろう。
(とにかく、逃げ切れるだけ逃げ切らなくっちゃ)
でも入り口から出れば、間違いなく姉妹ポリスたちと鉢合わせするだろう。
祐巳はつかれきった足取りでふらふらと窓に駆け寄り、そのまま身を乗り出して、――
「えっ!?」
しまった、ここは高層ビルの真上だった。
でも、もう遅い!
「きゃああーーっ!!」
自分のものとも思えない悲鳴を上げながら、祐巳はまっさかさまに落ちていった。

   (to be continued)