縁なき〈ホモソーシャル〉な人々

第一部において、司会者は『屈折リーベ』を説明するにあたり〈ホモソーシャル〉という言葉を用いていた。だがその言葉に関する説明は極めて分かりにくかった。聴衆にまともに通じていたとは思えない。というより司会者自身が、言葉の意味をよく了解できていなかったと私は判断する。自らの周囲に思いをいたす想像力があれば、自らを含めたこの場が、そんなにお手軽にこの言葉を使用できる状況かどうか、気がついてしかるべきだったからである。
ホモソーシャルとは、簡潔にいえば、ソーシャルとセクシャルとは違う。自分は男と身体を重ね合わせたことはない。したがって自分は〈ホモ〉ではない。――そう考えている男たちの態度を指す言葉だ。彼らにとって愛情(あるいは性欲)と友情とは本質的に異なる。あるいは会社を妻に優先することと、妻を愛することとはまったく別次元のことなのだ。
そう考える彼らは、しかし女性の視点から見れば、本質的にホモとなんら変わらない。現実にこの男たちは、会社、学校、サークルにおいて、男同士の関係を優先させているではないか。そのどこがホモではないというのか。男は本質的にすべてホモである。その自覚のあるのが〈ホモセクシュアル〉であり、自覚のない人間が〈ホモソーシャル〉であるというにすぎない。
この現実に目覚めることは、〈ホモソーシャル〉の人間にとっては恐怖である。彼らのアイデンティティは、ソーシャルとセクシャル、友情と愛情の分割の上に成り立っているからだ。それゆえに〈ホモソーシャル〉の人間は〈ホモセクシュアル〉の人間に対して嫌悪感を示す。これはただの同族嫌悪である。彼らは〈ホモセクシュアル〉と自分たちが同じであるということを、認めることができないのだ。
嫌悪感は恐怖の裏返しである。その恐怖感を隠すために、彼らは笑いを取る。恐怖を笑い飛ばす。あるいは一見〈理解のある〉態度を示すこともあるだろう。それらはすべて裏返せば、――自分たちはホモではない――という訴えかけである。
安心するがいい。突っ込まれようが突っ込まれまいが、あなたたちはすべて、十分にただのホモだ。少なくとも〈腐女子〉たちはその事実を見抜いている。分かっていないのは当のホモたちだけだ。その意味で会場は壇上壇下、まさにホモだらけだった。
まことに縁なき衆生は度し難い。たとえば仏法において仏菩薩は一切衆生を救済する存在である。だがその法の説くところを理解する限りでは、仏菩薩の救済はあくまでも誓願であって、義務ではない。したがって自らを振り返ることなく、因果応報の〈結果〉をそれと認識せず、〈腐女子〉との亀裂の所以を〈腐女子〉自身にしか見出しえないようなホモ連中に救いの手を差し伸べるほど、仏菩薩は暇ではない。私はロフトプラスワンの低い天井を振り仰いだが、救いはどこにも見えなかった。