ローズ・オブ・ザ・ロザリオ 〈裏〉第三部 『紅の滅亡』 

「あっ!」
 瞳子が止めるまもなく、
「いとしいしと、いとしいしと!」
 細川可南子が叫びながら祐巳さまに飛び掛かる。
祐巳さま!」
「いとしいしと!」
 祐巳さまは、崖の方へ飛びすさりつつ、手元をしっかりとかばいながら、
「ダメよ、可南子ちゃん!」
 そういってロザリオを掲げると、
「ロザリオは、このロザリオは私のものよ!」
 祐巳さまがあらためて、そうはっきりと宣言した瞬間、
 ――可南子の動きが止まった。
(……?)
 どうしたのだろうか。
「可南子!」
 瞳子は大声で呼んでみたけど、可南子はじっとしたまま動かない。
 サンマス・ナウアの熱風が可南子の髪を吹き流す。
 そうしたままで、どれくらいたっただろうか。
「……何よ、それ」
 可南子のつぶやきが風に乗って運ばれてきた。
「何よ、それ」
 静かなつぶやきが耳を焼くほどに熱かった。
(……?)
 可南子、どうしたのかしら。
「そんなの、そんなの祐巳さまじゃないわっ!」
 可南子はいきなり喚いた。
(……は?)
 何言ってるの、あなた、可南子?
祐巳さまは、祐巳さまはっ!」
 祐巳さまは?
「私の知っている祐巳さまは、そんなロザリオなんかに魂をとられる祐巳さまじゃなかったわ!」
(……は?)
「幻滅よ!」
 幻滅も何も、あなた何言ってるの。
「私の理想を裏切って! ロザリオなんかに、魂をとられて!」
 というか、ロザリオに魂とられてるのは、あなたでしょうが。
 だから追いかけてきたんじゃ、
「せっかく、せっかくここまで追いかけてきたのに!」
(……! まさか)
 可南子は、ひょっとして、
「せっかく追いかけてきたのに!」
 追いかけている間に、
(ロザリオと、ロザリオ所持者――祐巳さまとの区別が付かなくなったのでは)
 数百年の間に、知性も理性もすり減って、
 ――いまやロザリオへの妄念だけに、ひたすらとりつかれている可南子のことだ。
(ありえないことでは、ない)
 そう。
 いまの可南子には、むしろ祐巳さまこそが、炎と燃える妄念の対象なのだ。
(しまった! この私としたことが)
 なぜ、いままで気がつかなかったのか!
 瞳子の額を汗が伝わった。
 可南子はわめき続けている。
祐巳さま、そんなロザリオなんか、捨ててください! 今すぐ別れてください!」
「いや。どうしてあなたにそんなことを言われなくてはいけないの」
 祐巳さまの答えはにべもなかった。可南子は言いつのった。
「捨てて!」
「いや」
「別れて!」
「いや」
 言い争いが果てしなく続くうち、可南子はじりじりと祐巳さまを崖っぷちに追いつめていった。やがてまもなくぎりぎりの縁にまで達するだろう。
「ゆ、祐巳さま! 可南子!」
 だが疲労しきった瞳子は立っているのがやっとで、足がどうしても動かなかった。
 祐巳さまのツインテールが真下から吹き付けてくる熱風にあおられて、左右に割れる。
「別れて!」
「いや」 
 可南子が立ち止まった。
 祐巳さまはとうとう縁にまで追いつめられてしまったようだ。 
「……本当に幻滅したわ」
(可南子!)
 声のトーンが変わったことに気がついて、瞳子はハッとなった。思わず足を踏み出そうとして、そのまま前につんのめったその時、 
「そんな、そんな堕落した祐巳さまなんて!」
 可南子が手を振り上げた。
「堕落した祐巳さまなんか、――いらない!」
 逆上した可南子の声の、耳を焼く暑さに、瞳子の全身に緊張が走る。
(何をするの、可南子!)
「やめなさい、細川可南子!」
 咄嗟に叫んだ。
 ――でも体が動かない。
祐巳さまなんか、いらない!」
 可南子は手を振り下ろした。
「可南子!」
 祐巳さまは、避けようともしなかった。
祐巳さま!」
 避けないままに、激しくはたかれた祐巳さまは、バランスを崩して、そのまま奈落へと落ちていった。
 手にしっかりと握ったロザリオと、もろともに。

 ――やがて、轟音と大混乱の騒音が巻き起こった。
 火が飛び跳ね、天井を舐めた。そして崖の間際に突っ立っていた可南子は、逃げようともしないまま、すぐに火に巻かれて、見えなくなってしまった。
祐巳さまなんか、いらない!」
 それが業火の中から聞こえてきた、可南子の最期の言葉だった。