『子羊たちの陰謀』第4話(完)

みんなしばらく沈黙していた。
由乃さまがソファの上の小さなクッションを手に取ると、しばらく両手でもてあそんでいたけど、やがて自治領主さまに向かってぽんと放り投げて、
国璽を握っている松平候なら、先帝の委託と称して遺詔を作るのはたやすいことだわ」
遺詔、――つまりは皇帝の遺書のことだ。
自治領主さまは受け止めたクッションを横に置くと、
「そういうものね、確かに」
そう、そういうものだ。たとえそれが皇帝の〈本当の意思〉でなくとも、国璽の押された詔書は十分〈本当の意思〉として通用する。
(いや)
むしろ国璽の押された、つまり実務官僚の手を通した詔書のみが、皇帝の〈本当の意思〉として通用する。
巨大な組織を支える官僚制度って、そんなものだ。
(うちの地球教だって、大して変わらないし)
乃梨子は地球教のお宗旨そのものには、正直いってあんまり関心はない。だから幻想も持っていなかったし、入信してから、地球教の内部で奇妙に官僚主義がまかり通っているのをいくども目にしたけど、驚きもしなかった。
いや、それ以前に。
地球教の組織がどうであるか以前に、そもそもだ。
地球がありがたいとか、ありがたくないとか、
(そんなことは地球経典朗読会の人たちにでも任せておけばいい)
――くらいにしか、正直思えない。
そう、地球は何よりも〈美しい〉のだ。
神秘化、権威化してありがたがっている地球教徒たちに、少なくともその〈美しさ〉が分かっているとは思えない。
――なんて青い星。
初めて地球を宇宙から眺めて、つぶやいた乃梨子に、志摩子さんはまるで、
(そう、夕空にひっそりときらめく宵の明星)
そんな静かな笑顔を見せて、
「むかし、聖ガガーリンが同じようなことをおっしゃったそうね」
地球教の成人の名前を挙げて、そして、
――それはあなたの心を映した鏡。
ひっそりとつぶやいた。
その志摩子さんの、まるで暗黒馬頭星雲のような、かすかなうす桃色に染まった微笑む顔を見て、
(とりあえず修道士になってみよう)
あのとき、乃梨子は地球教への入信を決心したのだ。――――
「――それは本当?!」
由乃さまの大声で、乃梨子はわれに返った。
緊急連絡用のフォンを手に、由乃さまは真剣な声で応答している。
「そう、確実なのね。分かったわ、ご苦労さま」
フォンを切ると、由乃さまは乃梨子たちのほうを振り返って、
「西園寺大皇女が、祐巳公女の即位を支持したわ」
「――仔細は、由乃?」
自治領主さまの問いに、由乃さまは、
「不明。ただし報告では、大皇女は祐巳公女を〈てんしさま〉と呼んだそうよ」
「それは、また」
おもわず乃梨子志摩子さんと顔を見合わせた。
(〈天子さま〉――か)
明白な即位支持である。
由乃さま、皇族中でもっとも有力な大皇女がそこまではっきりと態度を表明したということは」
「とりあえず京極、綾小路の目はなくなったわね」
そう、それはそうだ。でも、
「このままで収まるとも思えません」
乃梨子の言葉に、自治領主さまが、いかにもさらりと、
「血を見るわね」
そうおっしゃった。
(――松平候・瞳子だけなら、事態の推移は知れているけど)
官僚組織のトップとはいえ、候自身は一兵の指揮権も持っていない。
私的に動員できる兵力においては、
松平家は名門ではあるけど、先帝の女婿として三十年来権勢を保ってきた京極・綾小路には、とても及ばない」
由乃さまの分析に、志摩子さんも乃梨子も同意する。つまり本当なら勝負にならないのだけど、
「松平侯は間違いなく外部、――つまり〈軍隊〉に助力を求めるでしょうね、由乃さま。それも、そのあてにする先は」
「さしずめ例の〈紅薔薇の孺子(べにばらのつぼみ)〉、――というところよね」
応じる由乃さまに、乃梨子はうなづいて、その名前を口に出してみせた。
「帝国元帥、――小笠原伯・祥子さま」
先帝の急死で、寵妃であった姉、つまり水野伯爵夫人・蓉子もろとも、没落するという噂もあったけど、自治領主さまは肩をすくめて、
「――まあ、それは門閥貴族たちの、勝手な思い込みね」
たとえ同じ地位と権力を与えられたところで、同じような成果を得られるわけでもないのに。
それをいまだに〈姉の七光り〉としか理解できない、おろかな貴族たち。
「でももうすぐ、あの〈紅薔薇の竪子〉の実力と凄みを骨身にしみて理解させられることになるでしょう。いやがおうにもね」
「はい、自治領主さま、そう思います」
「――いずれにせよ」
そして、自治領主さまは、まるでささやくように、ひっそりとつぶやいたのだ。
「われわれの、戦略もよくよく気をつけなければね」
(……あれ?)
――そのときの乃梨子は、少し過敏かなと思わないでもなかったのだけど。
でもその自治領主さまの、その言葉の響きが、ふと気になった。
(「われわれ」?)
そのわれわれとは、どの「われわれ」を意味するのだろうか。
(それは……)
必ずしも地球教をも、意味しないのではないか。
乃梨子は一瞬そんな疑惑を抱いたけれど。
そこへ、また緊急フォンが鳴り響いて、由乃さまがあわただしく席を立って、
「私よ、今度はなに?!……な、なに、何ですって!!」
次の瞬間、由乃さまが口にした内容に、乃梨子はそのとき考えていたことを頭の片隅へ追いやらざるを得なかったのだ。
――なぜなら。

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「即位しない、ですって?」
帝国元帥、小笠原伯・祥子さまの声は、静かなだけにかえって迫力があって、祐巳は思わず体が固くなったけど、でも思い切って、
「……はい」
と答えた。
ここは新無憂宮・黒薔薇の間。
謁見や儀式に使われる黒真珠の間ほど大きくはないけれど、それでも後宮の奥の、ささやかな部屋からあまり出る機会のなかった祐巳には、十分気がひける、立派な部屋だった。
「面白くなってきた」
そう言ったのは、えっと、確か佐藤男爵夫人・聖さま
女性ながらも男爵家の当主で、祥子さまのお姉さま、水野伯爵夫人・蓉子さまのご友人だという。
祐巳の真正面には仁王立ちの祥子さま。その斜めうしろには、聖さまと、同じく蓉子さまのご友人だという鳥居子爵夫人・江利子さま。そしてお二人の間に蓉子さまがいる。
――その蓉子さまは、言葉の静かさとはうらはらに、こめかみをピクピク震わせている祥子さまを手で制してくださって。そして、
「どうして?」
「どうして、といわれても……」
祐巳ちゃん。あなたは、れっきとした先帝フリードリヒ四世陛下のお孫さまなのよ。どうして皇帝になるのはいやなのかしら?」
たしかに、祐巳はゴールデンバウム皇室の正統の血筋なのかもしれない。
もっとも皇太子のお父さんが早くに亡くなってからは、そんなに大切にされた覚えもないけど。でもとにかく、
「うまく説明できないけれど。でもゴールデンバウムの血筋、皇族だからって、必ずしも誰も彼もが皇帝になりたいと思うかというと、そうじゃないんじゃないかと……」
「ふうん」
「皇族だからこそ、皇族なりのプライドとかもあるわけで」
「当然よだれをたらして皇帝の玉座を狙う、なんて思われるのは心外だ、と」
「ちょっと違うと思うけれど……」
気持ちを言葉に変換する作業は、とても難しいことだと思った。
「どっちにしろ、祥子はまたもや振られたというわけ」
「かわいそうな祥子。番狂わせの二連敗」
「最近のゴールデンバウムの方々、やってくれるわね」
蓉子さまや男爵夫人さま、子爵夫人さまは祥子さまを取り囲んで口々にいった。
「お姉さま、男爵夫人さま、子爵夫人さま、面白がらないでください!」
「だって、祥子。あなた、そもそも西園寺大皇女にご即位を願って、それであっさり振られたんでしょ」
「次は祐巳公女にまで振られて」
「見え透いた傀儡に据えようなんてするからよ」
相次いであれこれといわれて祥子さまは、無理やりに笑顔らしきものを作ると、
「そんなことをおっしゃるひまがあったら、代替策を考えていただきたいものですわ。玉座にいつまでも皇帝が不在というわけにはいきませんのよ」
「あの……そんなにお困りになるんでしょうか?」
何となく申し訳なくなって、祐巳が思わずそう口に出すと、祥子元帥さまは、
「あらあなた、まだいたの」
「……」
まだ、というほど時間もたっていないのに、いくら何でもあんまりだ。
「即位しない皇族に用はないのよ」
「あの、わ、わたし」
「何よ。同情で即位なんか、してくれなくってよろしくってよ」
「……」
即位は同情でするもんじゃないし、と思ったけど、祐巳はそうはいわずに、
「私、即位してもいいです」
「どういうこと?」
「あの、ひとつだけ条件があるんです」
「条件?」
祐巳は大きく息を吸い込むと、
「いったん即位した上で、――すぐに帝位を、お譲りするということでもよろしければ」
そう言って、祐巳は祥子さまの軍服の胸元のタイに、そっと手を触れた。
「それでよろしければ、私、即位してもいいです」
一呼吸おいて、タイがかすかに震えた。
鳥居子爵夫人さまが肩をすくめて、
「……変な仏心を出すものじゃないわよ」
子爵夫人さまの言い放った『仏心』は、祐巳には、大神オーディンの守護したまうこの新無憂宮には、ちょっと浮いているような気がしたのだった。
(了)