現実の設定を導入することの〈本質的な問題〉

〈現実の文脈を導入する〉ということは、必然的に以上のような判断を要求するということでもあります。しかし、それは、たとえ現実の知識に照らして妥当であっても、――いや、妥当であればあるほど、SSの範囲を逸脱して、ただの〈オリジナル〉に成り果てるでしょう。設定そのものを作ってしまうことになるからです。

しかもここにはさらに『マリみて』固有の問題が重なります。ここで『マリみて』が、そもそも固有名詞をほとんど導入しない作品である、ということを想起できると思います。地名にしても「東京」「多摩・武蔵野」くらいなもので、あとはK駅にM駅ですものね。これを「吉祥寺」「三鷹」と指名するのは簡単なことです。

にもかかわらず、それをしないというのは、結果として言えば――〈現実の文脈の力〉を借りて、物語を語らない――といってよいように思います。そういえば学園祭の演目は「シンデレラ」でしたが、要するに王子さえ出てくれば「白雪姫」だって「かえるの王様」だって、かまやしないでしょう。ストーリや展開に影響する部分は皆無なのではないか。

というわけで、この凡作はそもそも「トラピスト」という、潰しのきかない固有名詞を導入した時点で、間違っていたわけです。根本的にはそのフォローに追われて二転三転したというのが、実際の醜態でした。しかもフォローすればするほど、『マリみて』らしくなくなるに至っては、何をかいわんや。

とりあえず以上。稿をあらためます。