現実の設定を導入することの〈問題〉

この話はもともと、ボーイズ作家・菅野彰のエッセイ集『海馬が耳から駈けて行く』(四冊出てますが第三巻だったかな?)で、締め切り時に錯乱する知り合いの漫画家のセリフとして「ああ、この一枚のトラピスト・クッキーの方がどれほど世のお役に立つか。もう漫画家なんかやめて、トラピストにクッキーを焼きに行くわ!」とあるのを読んだのが大本です。私はたまたま「クッキーを焼いているトラピスト」、つまり函館と大分にある厳律シトー修道会が両方とも〈男子修道院〉であることを知っていたので、ネタにすることを思いついたのです。――思えばこれが間違いの始まりでした。

こういった話題を取り上げれば、当然そこには〈現実の文脈〉というものが引っ掛かってきます。この場合、修道院というネタを取り上げれば、当然「洗礼」には何が必要だ、「誓願」(修道士、修道女になること)にはいかなる課程を経るのか、といったことが引っ掛かってきます。

こういった〈文脈〉を『マリみて』に導入すると、どうなるか?

もともと日本のカトリック校で、実際に洗礼を受けるのはわずかであるといいますが、この点でご多分にもれず、主要登場人物のほとんどは、明らかに受洗していないということになるでしょう。――では〈志摩子〉はどうか? 彼女も〈していない〉と設定するのが妥当でしょう。洗礼の最も重要な必須条件は、両親の承諾があるかどうかだからです。

藤堂家が小寓寺の住職位を実質世襲しているとはいっても、日本の仏教では小寓寺は、宗派の中で本山の統制に従うべき〈末寺〉であり、それは藤堂家という私的家族とは別の存在です。ちなみに幽快の弥勒に関して志摩子が「これは藤堂家自体に所属するものです」といったことを乃梨子に説明しますが(『チェリーブロッサム』)、このくだりから、こういった現実の、原作設定中への反映があると考えることも可能でしょう。

志摩子が翻意して婿を取らない限り、藤堂家の世襲は絶え、志摩子の父が他界の後は、本山から新しい住職が指名されてくることになります。従って志摩子の両親にしてみれば翻意がやはり望ましく、しかしその場合、住職の夫人がクリスチャンではまずい、と考えるのが普通でしょう。従って〈リリアンの入学は認めても、洗礼は保留〉というのが、志摩子の両親としては妥当な判断であろうと思います。――

――などと語ってきましたが、問題は以上のような解釈・判断、それ自体にあります。