銀杏鉄道999 第3話『異装の女 ミロクの志摩子』

食堂車の手前までやってきたところで、
「あ……」
窓の外を、きらめく星が流れていって、祐巳は思わず足を止めた。
「流れ星?」
祐巳がつぶやくと、祥子さまは首を横に振って、
「いいえ、あれは彗星よ」
「彗星? あの、ハレー彗星とかの彗星ですか?」
「そうよ」
「でも尻尾がないみたいですけど」
それで、ちょっと変わった流れ星みたいにしか見えなかったのだ。
そう答えると、祥子さまは、
「彗星の尾は、いつもあるわけではないのよ」
太陽に近づいた時に、彗星を構成するガスやチリが蒸発したり、光を反射したりしてはじめて見えるの。――そう祥子さまは言った。そして少し首を傾げて、
「あなた、祐巳。そのあたりは学校で習わなかったかしら?」
「えっと、そういえば」
むかし理科の授業で習ったような、そんな気もする……、とか何とか、祐巳が口ごもるのに、祥子さまはちょっと微笑んで、
「彗星の〈す〉のあるあたりまでは、まだ遠いのだけれど」
「彗星の……す?」
す、す、す。
す、の意味が、祐巳は一瞬よく分からなくて、すると祥子さまは、
「鳥の巣、獣の巣、の〈す〉よ」
「あ、わかりました」
その〈巣〉か。
「そう、水や宇宙塵や、いろいろなものから構成される彗星の、その生まれる場所のことよ」
なるほど、それで彗星の〈巣〉なわけだ。祐巳は納得した。
「この近くにあるんですか?」
「いいえ、まだ先よ。いちばん近い巣でも、冥王星のあたりまで行かなければ存在しないわ」
そしてそこが、太陽系と外宇宙との実質的な境界なのよ、と祥子さまは言って、
――と見る間に、ひとつ、またひとつと彗星が窓の外を流れていく。
「きれい……」
といいかける間に、祐巳のおなかがキュルキュルと音を立てて派手に鳴った。
(ど、どどど)
どうしてこんなタイミングで鳴るのかな、私のおなかは!
祐巳はうろたえてしまって、でもお姉さまは、
「――さあ、食堂車へ急ぎましょうか」
「は、はいっ!」
(……大笑いされるかと思ったけど)
うながすお姉さまの言葉に、思わず祐巳は向こう側をよく確認しないまま早足に、食堂車の入り口の扉を開けようとしたそのとき、
「あっ!」
自動ドアじゃないはずの扉がさっと開いて、
ぱふっ!
「うわっ!」
――祐巳は、その扉を食堂車側から開いた人の、真正面に衝突してしまった。
「おやおや、何をあわてているのかな、この子は」
「すすすす」
「すすす、す?」
祐巳のうろたえぶりとは正反対に、こちらはずいぶんと落ち着いた声だ。
その静かな声に祐巳はかえって落ち着かされて、
「す、すみませんっ!」
のどにつかえた言葉がやっと出た。
「ほう。すすすの〈す〉は、すみません、の〈す〉か」
祐巳は顔を上げて、ようやく自分がぶつかった人の顔を確認したのだった。
(きれいな人だ)
まるで昔のギリシアの大理石の彫刻のように、色白で彫りの深い、涼しげな顔立ちを、淡い色合いの、肩で切り揃えた髪が包んでいる。
「なにかな?」
みると、身長は祐巳の頭が胸元にくるくらいだろうか。
すらりとしたその体にはカシミアの、――いや、〈たぶんカシミアの〉白いコートをまとっている。腕には腕章を巻いていて。
頭に載せた平べったい、何かの制帽のような、同じく白い帽子には、これも白い薔薇の形のバッジが取り付けられ、ライトにまぶしく煌めいていた。
こつこつと靴の音がして、祐巳の後ろに立った祥子さまが、
聖さま
「やあ祥子。今度の連れはこの子なのかな」
「それは聖さまには関係ありませんわ」
「祥子の妹が誰になるかは、車掌である私にも十分関係のあることよ」
はるかマウントリリアまで、長い旅を一緒にするわけだからね。――その人、つまり銀杏超特急999号の車掌さんこと、佐藤聖さまはそう言った。
(つまりこの帽子も〈制帽みたい〉じゃなくて、999号の車掌さんの制帽なのか)
しかしそれにしても、その車掌さんがお客さまであるお姉さま、祥子さまを呼び捨てにして、祥子さまが逆に車掌さんを〈聖さま〉と呼ぶのも、妙な感じだけど。
「そういうわけでもないわ、祐巳。999号の車掌さんは特別なのよ」
「そう、特別なのだよ、祐巳ちゃん」
――そういって胸をそらせた。
身にまとう制服のコートも、その特別な地位ゆえに999号の車掌だけは特別にカシミアなのだそうだ。
「もっとも自腹を切らなくてはいけないんだけど」
「自腹? でも制服なんでしょう? なのに銀杏鉄道の支給じゃないんですか?」
「そうよ。ちなみにこれは親に買ってもらったの」
車掌の給料はそれなりだけど、やっぱりカシミアは高いからねえという。
(自前で、特別扱い?)
ヘンなところでけちな銀杏鉄道だと、祐巳は少しあきれた。
(まあ、いいや)
とにかくこの車掌さんだか車掌さまだかに、話しかけてみることにする。
「あの、えーと、車掌さま」
「なにかな? ちなみにそんな他人行儀な呼び方よりも、名前で読んでくれるほうがマイブームだな」
「マイブーム、ですか」
ヘンな言葉を使って妙なことにこだわる方らしい。仕方がないので祐巳はご希望通りに、
聖さまは、999号でどれくらいになるんですか?」
「どれくらい?」
「えっと、つまり999号に車掌さんとして勤務なさって、どれくらいの期間がたったのかということですが」
祐巳がそう聞いたのに、聖さまはちょっとこわいような、真剣な顔になって、
「わたしが、どれくらい、この999で勤務しているのかって?」
「は、はい」
すると聖さまは、奇妙にあっさりと答えてくれた。
「ああ、どれくらいも何も、今回が初めてよ」
「――は?」
祐巳がワンテンポずれて、思わず聞き返すと、聖さまはまじめな顔のままで、
「初心者、初心者。この列車がどこを経由していくのかもよく知らない」
「――は?」
「帽子に白い薔薇のマークがついてるでしょ。これはいわゆる若葉マーク」
「――は?」
「まあ、大丈夫よ。こうやってきちんと走っている限りは、いつかはどこかに着くわよ」
「――は?!」
ど、ど素人の新入社員ってことですか、それは、つまりは?!
(〈特別〉とか、いったのに!)
大丈夫ですか、999号! それでいいの、銀杏鉄道!
祐巳はさすがにビックリしたけど、聖さまはしれっとした顔だ。
そこへお姉さまが、
「――聖さま
「はいはい、祥子。――ごめんごめん祐巳ちゃん、冗談よ」
「――は?」
「……ふっふっふっ」
聖さまはとつぜん、すまし顔をくずして笑い声をもらした。
と、見る間にカラカラと、いかにもおかしそうに笑いはじめる。
祐巳は戸惑ってうしろのお姉さまを振り返ったけど、お姉さまは黙ったままだ。
しかも、なぜか聖さまをにらんでいるようにも見える。
「ふっふっふっ」
聖さまはまだ笑っていた。
そのいかにも楽しそうなお顔に、祐巳はふと、少しドキッとしたけど。
――いや、それはとにかく。何がなんだか、よく分からない。
するとお姉さまが、ちょっと疲れたようなお声で、
「あのね、祐巳。今までの私と聖さまとのやり取りからしても、そんなはずはないでしょう。そうは思わなくって?」
「え? でも」
「いくどか旅の経験のある私と、旧知なのよ。その聖さまが、まったくの新人だったりするはずはないでしょう」
「〈きゅうち〉って、つまり、お姉さまと聖さまとは以前からのお知りあいということですか?」
そういえば祐巳を〈今度の連れ〉と聖さまは言った。つまり〈今度でない〉時のこともご存知なのだ。
(……え?)
今度?
ということは、私以外の人間との旅を、お姉さまは以前に?
――祐巳は引っ掛かったけど、なんとなくお伺いできないでいるうちに、お姉さまはため息をついて、
「この方の一見まじめそうな、すまし顔に取り合うんじゃないの。あなた、からかわれているのよ」
「いいじゃないの祥子。ずっと、かわいげがあるというものよ、あなたよりも」
「お言葉ですが、聖さまにかわいがっていただくために、この子を私の妹、旅のパートナーにしたわけではありません」
「別にいいじゃない。減るもんじゃなし」
「……」
祥子さまがつぶやいた言葉は、祐巳の耳には聞こえなかったけど、
――減ります!
(とでも、言ったんだろうなあ)
他人さまよりも少しニブいと、自分で思う祐巳でも、さすがにそれくらい察しがつく。聖さまも同じように察したのだろう。
「大丈夫、大丈夫。減らない、減らない。だから気にしない」
「――気に、します!」
(うわっ!)
とうとうお姉さまが小爆発を起こしたけど、聖さまは気にした様子もなく、とつぜんすっと祐巳の頭をなでてきて。
「うぎゃっ!」
祐巳はびくっと肩をすくめたけど、聖さまはまたカラカラと楽しそうに笑い声を上げて、
「じゃあね、祥子。またあとで、祐巳ちゃん」
そう言って聖さまは向こうの客車の方へと立ち去っていった。
(うーん)
初対面だけど、――聖さまがどういう方か、なんとなく分かったような気が、祐巳はしたのだった。
「――行くわよ、祐巳
お姉さまが食堂車の扉を開けて、先に立った。
祐巳は何か言おうかとも思ったけど、でも黙ってついていくことにした。
(……やっぱり気になるけど)
聖さまは、たしかに祐巳について〈今度の連れはこの子なの〉といった。
それがやっぱり気になる。でも黙っていた。
お姉さまのお顔は見えなかったけど、ご機嫌は明らかに悪そうだったので。
(それは、まあ)
どう考えても、今みたいにからかわれるのはお好きではなさそうだし。それくらいは祐巳にも分かるのだ。

――ようやく食堂車に入って椅子に座ると、
「ふぅ……」
祐巳はぐったりして、そのままテーブルの上に突っ伏してしまった。思った以上におなかがすいていたらしい。
「やっと食事にありつけるわね」
「はあ」
お姉さまのご様子も少し落ち着いたようで、祐巳もほっとして。
そこへ、
「いらっしゃいませ、ご注文は?」
「え、あ、は、はいっ!」
祐巳が顔を跳ね上げると、そこには、
「え?」
(……うわあ)
――そこには、なんというか、
(ホ、ホトケさま?)
そう、色とりどりの衣をなびかせ、華やかな冠をかぶり、それはどう見ても、仏教のお寺で言うところの、
(――やっぱり、仏さまだよね)
というか、仏さまの、
(コ、コスプレっていうのかな)
とにかく仏さまのような格好をした人が、そこに立っていたのだった。
「――ご注文は?」
手に水指しを持った仏さまは、おだやかな微笑みを口元に浮かべていて。
(あ、きれい)
そこで祐巳はやっと、その人の顔立ちが、本物の仏様に負けず劣らず、涼しげに整っている美人さんであることに気がついて。
(今日はどうも、きれいな人にご縁があるらしいなあ)
そう思うと、何となく顔がほてってくるような気がした。
「……祐巳
祥子さまの呼ぶ声は、少しかすれたというか、あきれた感じだった。
「はいっ!」
祐巳はあわてて、
「えっと、メ、メニュー!」
見当たらない。
「メニューは、どこっ!」
お姉さまが黙ってテーブルの上、祐巳のすぐ手前あたりを指さした。
「……すみません」
今日は謝ってばかりだ。
――祐巳がさっきまで突っ伏していたあたり。顔の下に敷かれていたメニューには、くっきりと跡がついていた。
「……ふふ」
麗しの仏さまにまでクスクスと笑われて、それで祐巳はさすがに恥ずかしくって、思わず下を向いてしまったのだった。(続く)