〈平等〉の取り違え

そのセクハラについて語る前に、まず別件から始める。今回の目玉の一つは第二部であった。女性オタクのメガネフェチをテーマに取り上げることで、明らかに没交流であるところの美少女オタクと、BL愛好者との親交を図る。これは(むろんまったくのイコールではないにせよ)男性オタクと女性オタクとの交流を図るものだったと言い換えても間違いではない。第二部には十分な時間が割かれ、女性論者たちが「メガネくん」をカテゴライズしつつ論じ、その熱弁とパフォーマンスは多数を占める男性観客たちにも、おおむね〈好評〉でもって迎えられたように見えた。論者たちは総じてサービス精神旺盛であり、話は分かりやすかった。
だがこの第二部で決定的によくなかったことがひとつあった。後半で、壇上の論者たちに対する質疑応答のタイムが設けられたとき、一定の時間が過ぎた時点で司会者が、「これ以降は女性にのみ質疑を許可する」と発言して場を仕切ったことである。
司会者はその理由として以下のように語った。この第二部を設けた意味は、ひとえに〈男性オタクと女性オタクとの交流を図る〉ことにある。そして現実問題として、この会場には圧倒的に女性の数が少ない。ゆえに女性に対して、主催者側から積極的に発言の機会を提供してこそ、はじめて〈交流を図る〉ための大前提である〈平等〉を実現することができる。司会者はそこにおいて、アメリカで黒人差別の解消のために、大学において黒人優先入学枠が設けられた史実を例に挙げていた。要するに〈差別〉を解消するために〈差別〉が必要だというわけである。
ハンデを与えよという主張そのものは正しい。だがこの司会者のやったことは、実際にはまったくの逆効果であると私は判断する。この司会者の行為は、差別を解消するどころか、男性オタクと女性オタクとの亀裂を、むしろ深める行為であった。なぜか?
少女愛好の男性オタクの大半は、BLに対して関心を持たず、当然知識も薄い。その現状下において、彼らの大半は、単にBLを無視するのみならず、BL愛好家の女など気色が悪いと思っているのが実情のはずである。そして彼らはその差別意識を隠さない。
BL愛好家の女性たちは、その露骨な差別意識を敏感、的確に受け止めている。だから彼女たちは〈腐女子〉という謙称、蔑称を自らに付与することで、その露骨な軽蔑に対し、身をかがめてやり過ごしているのである。事実、壇上の女性論客たちは、幾度もこの〈腐女子〉という称を自らに冠して発言していた。彼女たちは、そうしなければ語れないことを経験的に知っているのだ。
この亀裂を解消するのは容易なことではない。男性オタクと女性オタクに交流がないのは、そもそも〈腐女子〉たちが身をかがめた姿勢であることに、男性オタクたちが無頓着であり、気づきもしないからである。だとすれば交流の第一歩において何を為さねばならないかは明白だ。男性オタクたちに〈腐女子〉を直視させ、彼女たちについてどう考えているのかを正直に告白させればよかったのである。
それによって彼らは無知と偏見をさらけ出すだろう。だが、それはそれでよいではないか。最低でもコミュニケーションは、それによって開始される。そこから相互理解の道も生まれうるだろう。だが現実問題として男子オタクと女性オタクの間には、その程度のコミュニケーションさえ存在しない。それが亀裂の実態なのだ。
ここにおいて司会者の為すべきだったことが何かは明白である。〈女性〉に対して〈優先的〉に〈自由〉な発言の機会を与える必要などなかった。必要だったのは〈男性〉を指名し〈強制的〉にBLについて思うところを述べさせることだったのだ。――いや、言をあらためよう。もっと効果的なのは、第一部の男性論者たちをこの場に連れ戻すことだったはずだ。第一部の論者は、水野レイさんを除いて男性だった。この男性たちは、第二部においては、楽屋に引き上げて、その場にいなかった。
この彼らの、楽屋の岩戸篭り自体が問題だった。彼らが楽屋の中でそもそもの当初から、いかにくだらない喋々喃々に終始していたらしいかは、このあとで言及する。もし彼らにほんの少しでもこのイベントの〈趣旨〉が了解されていたならば。〈男性オタクと女性オタクの交流〉について思いをいたすところがあれば、楽屋になど引っ込んでいてよいはずはない。これは本当の意味で許しがたい怠惰である。司会者はこの怠惰な連中を楽屋から引きずり出し、BLについてその無知と偏見をさらけ出させれば良かったのだ。
それこそが彼の為すべきことであった。だが残念ながら、この司会者にはそのことがまったく分かっていなかった。彼は腐女子に発言の機会を優先的に与えた。その実質は、観客のごくわずかしか占めていなかった女子にとって、自由どころか、むしろ発言せよという強制以外ではなかった。そしてそうやって強制された女子の発言を、男性オタクたちは十二分に鑑賞し、文字通り楽しんだのである。それが第二部の、和気藹々とした〈好評〉の実態であったといってよい。