見てないアニメの感想

――を書けるほど器用ではない、というか書くのは単に間違っているのですけど。小説のアニメ化で否応なしに思い起こすのが小野不祐巳、じゃなくて不由美、あ、でも〈不〉祐巳、には違いないわ、の『十二国記』。先週「風の万里、黎明の空」終章が地上波で放送されて、見たのですけど、主人公の声に萌えるくらいしか、私の心に猶予はないのかしら。

小説の文章をストレートに脚本に起こしてもしょうがないでしょうと晶はしみじみと思い

原作「風の万里、黎明の空」の最後の演説なんて、実際のところ青年の主張丸出しの恥ずかしいシーン。文章力での表現から逃げて、メッセージで語らせた、単に締まりのない、良くない部分なんだから。そんな部分に脚本割いてどうするの。そこを演出で片付けて、代わりに冒頭の水戸黄門シーンをもっと丁寧にやればよかったのよ。本作のカタルシスの最も重要な個所でしょうが。だいたい陽子は玉座のある壇上で演説してるのだけど「みんな平等なのだから伏礼などするな」と言いながら壇上で演説してるのは、まずいと思わなかったの? 当然これは、壇上から〈降りてくる〉べきシーンでしょ。違うかしら?

〈アニメ〉製作者が〈アニメ〉を作らずに〈原作〉を作る

以前、最初の方も少し見たのだけど、これもつまらなくて。アニメでは、主人公・景王陽子の原作には出てこなかった同級生達が、同じく十二国にやってきて、いろいろ葛藤を繰り広げる。でも原作の「月の影、影の海」では、訳も分からず十二国にやってきて、あちこち逃げ惑っていたら「いやー、あんた王様っすよ」と玉座に祭り上げられて、そこで終わる。原作におけるその〈理由付けのなさ〉を、アニメでは同級生との葛藤を通していかに理由付けするかに神経が注がれていて、だから原作にあった、ある種の奥ゆかしさが全くない。

刊行された脚本集によると、同級生を登場させるアイディアがそもそも「小野不由美の原案に存在した」というのが、製作サイドの論拠らしいけど、たとえ小野自身が今になって何を言おうと、結果として同級生を登場させなかった〈選択〉こそが作り手として重要なんでしょうが。端的に言って捨てたクズを、大事に拾い上げてどうするの? アニメ化する以上はアニメを作ってくれればよいので、別にこれ以上〈原作〉を作っていただく必要はない。根本的に何か勘違いをしているように思います。

作ることの〈モラル〉

肝心なのは、限られた時間内でいかに刈り込むかではないのかしら。もうすぐ「王の帰還」が公開される『ロード・オブ・ザ・リング』の第二部「二つの塔」。監督のピーター・ジャクソンは、一行が離散して物語が分岐する長編であるこの第二部をバッサリと刈り込んで、その上でアラゴルンの一行を中心とするヘルム峡谷での戦闘にかなりの時間を割り当て、そこにクライマックスを持ってきた。――原作付きの映像化の、取捨選択の鑑識眼ってそういうものでしょう。

それにしてもかつて評論家の大森望が「十二国記にはモラルがある」ということを書いていて、しかしメッセージ性があることと、いわば〈書き方にモラルがある〉こととは別でしょうと思ったものですけれど。まあ十二国記原作も、五年ほどおいた新刊から、正直言って目に見えて悪くなったし、ともあれ読者が十二国記に人生の慰めを見出すのは別によろしい。いかに読むかは金を払って本を買った、少なくとも読むのに時間を割いた読者の自由なのだから。でも作り手がそれでは困るわね。メシ食ってるんなら、少しは真剣におやりというものよ。