嫡庶の別の強化と〈お姉さま〉の消滅

この疑問が『江戸奥女中物語』のおかげで氷解しました。本書によると、六代将軍家宣の死去後――ちょうど18世紀に入ったところ――を境として、それまで曖昧だった将軍正夫人と側室との区別が厳格化する。それまでは正室であるというだけでは、夫が死んでしまえばそれまでで、じっさい家光夫人の本理院・鷹司孝子が逝去したとき、血のつながらない四代家綱将軍は服喪さえしなかった。これは生前に、名義上の母親である嫡母扱い――今でいうところの養子縁組をしていなかったからです。

ところが四歳で将軍となった七代家継の場合、生母(庶母)である月光院とは別に、六代家宣の正室である天英院・近衛煕子が嫡母となっていた。このため天英院は月光院が従三位に叙せられるに先立って従一位に叙せられ、家継将軍の母儀として万事に優先の取り扱いを受けるようになり、そしてこれ以降、正室が嫡母となることが慣行化します。

この変化はもう少し後になると可視的な差別――この〈目に見える差別〉というのが封建時代の本質ですが――として立ち現れるようになる。例えば家光将軍の時であれば、有名な乳母、春日局やお万の方は、本丸大奥のど真ん中で、御台所の御座所に匹敵する広さの部屋を占めていた。しかもこのとき夫と不仲だった御台所孝子は別居だったので、春日局やお万の方はまさに名実ともに大奥を差配していたわけです。

しかし江戸時代後期では、本丸大奥の〈正式な住人〉は御台所一人となります。側室は大奥本体ではなく、付属部であり、使用人たちの住居群にすぎない長局(ながつぼね)に追いやられ、しかも正式な認定を受けなければ将軍の家族扱い――〈上通り〉の扱い――さえされない。つまり子を産んだだけの道具、ただの使用人として留め置かれてしまう。じっさい私の知る限りででも、幕末、十三代家定生母の本寿院はそのように放置されたままで、入輿した天璋院夫人の勧めでやっと上通りになったといいます。

正室か側室か。――男との公認関係のみがその女性の立場を絶対的に束縛するというこの変化は、つまりは男女差別の制度的強化に他なりませんが、こういう環境ではもはやお万の方や右衛門佐のように、側室でありながら総取締として大奥の行政方にも目を光らせて、将軍からも特別扱いされるといったシンギュラリティ的な存在は、ありえなくなってしまうでしょう。つまり〈お姉さま〉を見出しうるのは17世紀までなんですね。とすれば、お万の方と右衛門佐だけで全体の四分の三が終わってしまう、一見奇矯な『徳川の夫人たち』の構成は、むしろ吉屋の鑑識眼の確かさを証するものなのだと、納得したわけです。

なお本書『徳川の夫人たち』四冊は現在でも朝日文庫で容易に入手・閲覧可能ですので、機会があったら是非どうぞ。