大奥上臈・姉小路の反発

ほとんど付け足しで徳川後期百七十年ををかっ飛ばす『続・徳川の夫人たち』下巻において、いささか目だって登場する人物の一人に、天保の改革(1841-1843)のころ本丸大奥を掌握していた上臈・姉小路(あねがこうじ)*1がいます。

その彼女の有名な話。大奥にも倹約令を布こうとした老中・水野越前守忠邦(1794-1851)を呼びつけた姉小路は「あなたは側室をお持ちか」と忠邦に切り出した。忠邦が「後継ぎを絶やさぬためにも、側女は置かねばなりませぬ」と肯定すると、姉小路は「大奥に仕える女たちはお勤めのために皆、男子を断ってご奉公しておる。その代償としての華美を禁じられて、何の楽しみがあろう。大奥ばかりは越前どのの禁令、受け入れられぬ」――男女の欲望を断てぬ貴公に、何でわれらを束縛する資格があろう、と冷笑し、忠邦を絶句させたといいます。

この話は、例えば最終的に忠邦の敵に回った本丸大奥の立場を代表するエピソードとして、しばしば引用されるのですが、この話を考えるに際して、ある当然の前提を忘れてたのに気がつきました。大奥の女中はサラリーマンならぬサラリーウーマン、給与生活者であり、働いた〈後〉に初めて報酬をもらう存在だったということです。大老・老中以下、表の男子はそうではありません。彼らは〈禄〉を与えられた存在でした。

*1:本名は橋本伊予子。中級公家の橋本家の女。有栖川宮織仁親王の姫、楽宮喬子女王(さきのみや・たかこ)が、十二代将軍・家慶――当時は世子――の簾中(正室)となるのに近侍、江戸へ下向しました。楽宮の没後も留まって、家慶の将軍就任とともに本丸大奥を統括。のち十三代家定の再婚問題で失態を演じて失脚しますが、姪の経子(観行院)が生んだ和宮の降嫁建議に際して幕府に再起用されます。有吉佐和子の小説『和宮様御留』にも登場する「勝光院」とはつまりこの姉小路のことです。