表裏一体の〈解放〉と〈追放〉

ここで抑えておく必要があるのは、明治政府が政治における女子の、徹底した排除をもたらしたということです。『ミカドの淑女』の女官たちは、京都の菓子や料理が恋しいといって嘆くのですが、失われたのは甘い菓子、清き水、山紫水明の風景だけではありません。彼女たちが徹底的に喪失したのは、何にもまして〈政治権力〉でした。

江戸城大奥の女中たちが、相当部分の儀礼や、徳川氏の家政・家庭にかかわるという形で、政治権力の中枢の一端を荷っていたように、京都の〈大奥〉=御常御殿(おつねごてん)では、少なからぬ女官達が同じ役割を果たしていました。その中でも例えば長橋局(ながはしのつぼね)と俗称される勾当内侍(こうとうのないし)の権力は絶大で、天皇のプライベートを仕切りつつ、表とのやり取りを仲介する立場である長橋の権力は、表における幕府との仲介役である武家伝奏にも匹敵するものでした。

そのような長橋以下の女官達に囲まれ、奥にこもり御簾を垂れ込め、化粧をしてひっそりと生活していた睦仁親王を、表に引き出し、ひげを生やさせ、軍服を身にまとわせて〈明治大帝〉と崇められる立場に押し上げたのが、明治の元勲という〈男〉どもでした。そして『ミカドの淑女』の女官たちは、トランスセクシュアル的な存在であったミカドを奪って、自分達の仲間である〈男〉にしてしまった〈男〉どもを、ずっと憎悪してやまなかったのです。――維新などなければよかったのに、と。

『ミカドの淑女』の範囲外になりますが、明治天皇はその末年、お局制度=後宮制度を廃止しました。当時すでに皇太子、後の大正天皇は実質、妃とその出生の皇子だけからなる生活を営んでいた。近代市民的家庭生活を唯一の〈あるべき家族〉とするヴィクトリアン・モラルが、天皇家においても浸透した格好で、それは当然といえば当然の時代の趨勢でした。ただ、そこにおいて彼らに仕える女官はもはや、政治権力から排除された〈使用人〉の群れに過ぎません。それまで曖昧であった表と奥の別を明確化し、宮中を、君主の家庭生活を保持するための〈事務所〉にする。これは立憲君主制下においては当然のことですが、後宮の〈開放〉は結果として権力中枢から女子を〈追放〉する作業でもあったと考えてよいでしょう。

『ミカドの淑女』のラスト。――「あのお方にこそお仕えしたいのでございます」と熱情を込めて語る歌子は明治40年(1907)、女子部部長の任を解かれて下野し、宮中に戻ることは二度とありませんでした。


――――――――《脚注》――――――――