鉄郎とメーテルの〈親離れ〉

鉄郎とメーテルの関係については、むかしからよく擬似〈親子〉関係だと言われることが多いし、物語上もそれを思わせるようなシーンや台詞が多々あります。が、この考え方には、反対とまでは言わずとも、少し注釈が必要なように思います。
先年発行された別冊宝島の『パーフェクトブック』(2002)http://www.takarajimasha.co.jp/pub/999/ では「『999』は親離れの物語である」という指摘があります。もっとも『999』を少年鉄郎が成長して大人になるビルディングス・ロマンであると把握する限りでは、〈親離れ〉というのはむしろ従来のありふれた見解ですが、上『ブック』のユニークな点は、そのいうところの〈親離れ〉の実質的内容が、こういったビルディングス・ロマンという見方とは正反対だという点です。
どういうことかというと、鉄郎は神話的に安定したキャラであり、つまり〈変化〉も〈成長〉もしないと『ブック』は指摘しています。これは重要な指摘です。成長変化するのはむしろ、ある目的で鉄郎をアンドロメダまで連れて行きながら、最後の最後で考えの変わる――鉄郎を自分の目的の犠牲にしたくないと思うようになる――メーテルの方なのです。
では『ブック』のいう親離れとは具体的には何を指して言っているのかというと、母親から機械の体になるよう遺言された鉄郎が、最後には機械の体を拒絶する。母親から壮大な機械化世界を築き上げるための助力を望まれたメーテルが、結局母を裏切って機械帝国を滅ぼしてしまう。鉄郎とメーテルの双方はいずれも親から、良くも悪くも一方的に期待を押し付けられているので、その親の期待の拒絶=親離れが、物語のクライマックスを支える形になっているわけです。
お互いの親からの自立という共通点で、この二人の関係は支えられている。その上に立ってお互いを助け、お互いに助けられて、二人はアンドロメダ終着駅にまでたどり着く。この関係は〈親子〉というよりはむしろ〈姉妹〉の関係により大きく類似しているように思います。