サクランの更新

いささか錯乱気味なのじゃ。わけのわからぬものをノリのままにアップして、しかもわざわざSSリンクにまで登録に行っておる。これはわらわが錯乱しているのだと考えるほかはあるまいぞ。サクランといえば『桜蘭高校ホスト部』4巻が出ていたので昨日買って読んだ。ハルヒよいぞ、ちこう寄れい、杯を取らす。なに、わらわの杯が受けられぬのと申すのか! ああ、躁鬱。

――という感じで、other texts に上げていた作品?のアップロード、しばらく継続いたしますわ、ええ。

なぜか更新ができません

なんだかよく分からないのですが、昨日からホームページを更新して、銀英伝ページを作ろうとしているのですけど、肝心のFC2のページでログインができません。障害報告が上がっているというわけでもないみたいだし……どうなってるのかしらん。機会のある折にやらないと、また放置状態になってしまうのよね……。困ったわ。

わが青春の銀河鉄道

そういえば親離れを経験し、そして別離のときを迎えるこの二人の関係は、ちょうど『マリみて』で上級生が卒業し、スール関係が解消されるのにも似ているのではないでしょうか。それにマリみての登場人物たちも〈切れる〉ことはないですね。
え、なんですって? そんなこと言うけど、当代の黄薔薇さまのとこの〈黄薔薇のつぼみ〉はしょっちゅう切れてるじゃないかですって? でもあれは由乃さんの令ちゃんにたいする〈甘え〉の表出ですからね。つまり由乃さんの行動は、思い通りにならないときに暴力的な言動や行動をして、他人を傷つけたり怒らせたりするといった類の行動とは、本質的に異なるといってよいでしょう。〈拳で分からせる〉というのとスール関係の指す方向とは、明らかに正反対ですからね。
テレビや映画では、鉄郎に「汚いぞ!」といわれたメーテルは、とても悲しそうな顔になります。でも原作の最終回『終着駅/わが青春の銀河鉄道』で、表紙の見開きに描かれたメーテルの顔は、――少なくとも「悲しい」というのとは少し異なっているようにみえる。原作者松本零士は、もともと傾向としてそんなに激しい変化のある顔を描く人ではありませんが、この最終回見開きの、口元を閉ざし遠くを見つめるメーテルの顔は、どことなく不思議な陰翳を帯びて、むしろ穏やかな雰囲気をたたえているようにさえ思われます。

鉄郎が……私を助けるために、ネジになってもいいといった。
私は鉄郎の夢を砕いた女。
鉄郎の未来も希望も消してしまった女。
私を魔女と呼ぶ人もいる。
そう、私は魔女……

淡々と語られる台詞と不思議な表情とがあいまって、この最終回の見開き表紙が全編の掉尾を飾っています。

鉄郎とメーテルの〈親離れ〉

鉄郎とメーテルの関係については、むかしからよく擬似〈親子〉関係だと言われることが多いし、物語上もそれを思わせるようなシーンや台詞が多々あります。が、この考え方には、反対とまでは言わずとも、少し注釈が必要なように思います。
先年発行された別冊宝島の『パーフェクトブック』(2002)http://www.takarajimasha.co.jp/pub/999/ では「『999』は親離れの物語である」という指摘があります。もっとも『999』を少年鉄郎が成長して大人になるビルディングス・ロマンであると把握する限りでは、〈親離れ〉というのはむしろ従来のありふれた見解ですが、上『ブック』のユニークな点は、そのいうところの〈親離れ〉の実質的内容が、こういったビルディングス・ロマンという見方とは正反対だという点です。
どういうことかというと、鉄郎は神話的に安定したキャラであり、つまり〈変化〉も〈成長〉もしないと『ブック』は指摘しています。これは重要な指摘です。成長変化するのはむしろ、ある目的で鉄郎をアンドロメダまで連れて行きながら、最後の最後で考えの変わる――鉄郎を自分の目的の犠牲にしたくないと思うようになる――メーテルの方なのです。
では『ブック』のいう親離れとは具体的には何を指して言っているのかというと、母親から機械の体になるよう遺言された鉄郎が、最後には機械の体を拒絶する。母親から壮大な機械化世界を築き上げるための助力を望まれたメーテルが、結局母を裏切って機械帝国を滅ぼしてしまう。鉄郎とメーテルの双方はいずれも親から、良くも悪くも一方的に期待を押し付けられているので、その親の期待の拒絶=親離れが、物語のクライマックスを支える形になっているわけです。
お互いの親からの自立という共通点で、この二人の関係は支えられている。その上に立ってお互いを助け、お互いに助けられて、二人はアンドロメダ終着駅にまでたどり着く。この関係は〈親子〉というよりはむしろ〈姉妹〉の関係により大きく類似しているように思います。

原作の鉄郎は切れない

原作最終回の鉄郎は殴りません。罵りもしません。終着駅に降り立った鉄郎を出迎えた、案内人のメノウは、鉄郎に機械の体のカタログを示しながら次のように告知します。「女王プロメシューム陛下があなたを見込んで、惑星大アンドロメダを支えるネジにするよう、指示なさいました。拒絶するとメーテル様が責任を問われて死刑に処されます」。メノウのこの宣告に対して鉄郎がどう反応したかというと、「いいよ、なってやるよ、ネジに。メーテルは命がけでいっしょに旅をしてくれたんだ」――と、鉄郎はおとなしく指示に従うのです。
もっともこの直後に、女王の謁見室に赴く途中で、「あなたはおとなしくネジになることを承知して、女王陛下に近づくチャンスを狙っているのではありませんか?」と、意図をメノウに見抜かれてしまうのですが、それはおいても、結局最後まで鉄郎はメーテルを罵りも殴りもしません。原作の鉄郎がメーテルに対して〈切れる〉ということはないのです。

罵る鉄郎、殴る鉄郎

『999』のクライマックスは映画か、テレビか、原作かで、筋の展開がかなり異なりますが、今日はそのうちで些細な演出にかかわる相違を取り上げてみようと思います。
テレビシリーズ最終回では、鉄郎はメーテルを罵ります。すなわち機械の体を拒絶した鉄郎は、女王プロメシュームの命令で逮捕されて、目の前のメーテルを罵倒するのです。

メーテル、これは君の命令でもあるのか!?
言うことをきかない者は、逮捕して処刑しようっていうのか!?
汚いぞメーテル! メーテル!……(連行されていく)

映画版だと、かてて加えて罵るどころではすみません。殴ります。
メーテルが自分を連れてきた目的を知って、しばらく押し黙ったかと思うと、「汚いぞ!」と叫んで殴り飛ばすんですね。メーテルの頭から帽子が転がり落ちる勢いで。その直後、ヤツは機械帝国の近衛士官に警棒で殴り倒されて、気絶しますけど、これは報いですか、天罰ですか? 私はこの映画のこのシーン、いつ見ても、報いが直ちに降りかかったとしか感じないのですけど。ええ、まったく、殴るのはいけませんよ。

〈切れる〉ことのない鉄郎

ご無沙汰で、またぞろBBSを消してしまいました……申し訳なし。
今日は L'eau de rose の砂織さまと週末にお話していて思いついたことを忘れないうちに書き留めておこうと思います。