恋愛の排除 

この〈悲劇〉→〈喜劇〉は、時代の変化にもとづく、ある意味での〈進歩〉といってよいように思います。吉屋の作品が〈悲劇〉で終わらざるを得ないのは、明らかに「女子三従」の家父長的な時代制約の反映ですから。つまり女子校を舞台にした作品が悲劇に加えて喜劇をも書けるようになった、すなわち幅の拡大という点で、それは〈進歩〉でしょう。

しかしそこで指摘する必要があるのは、氷室の『クララ』『アグネス』から〈恋愛〉が抜けているということです。そこで恋愛対象として登場するのは〈男子〉、つまり女子校の外部だけなのです。

『アグネス』のラスト。主人公〈しーの〉の高等科二年になる直前。中等部以来の憧れの先輩たちが全員卒業してしまう、「きっと、こうやって、徳心もアグネスも、つまらなくなっていくんだわっ」と嘆く〈しーの〉に、恋人の大学生は苦笑して「徳心もアグネスも変わらないよ」と告げます。今度はおまえの友人達が下級生から憧れの先輩として仰ぎ見られて、そうやって〈徳心学園〉はいつまでも続いていくじゃないか。

全編の総括であるこのラストは、氷室の関心が女子校を〈永遠の祝祭の空間〉として描く点にあることを示しています。それは吉屋的女子校の対象化ですが、その対象化と同時に、氷室が女子校から〈恋愛〉を排除していると見ることも可能でしょう。〈恋愛〉描写が〈関係の変化〉を伴う以上、それは〈永遠無変化〉とは、原則として相容れないからです。この場合の〈変化〉とは、たとえば『レイニーブルー』〜『パラソルをさして』間において、祥子と祐巳に発生したような種類の〈変化〉のことです。