抑圧、そして〈恋愛〉の開放

全般傾向として、恋愛主題の少女小説の書き手としての側面こそが色濃い氷室が、こういった形で〈恋愛〉を排除して物語を作るというのは、興味深いことです。そのあたりは向き不向き、個人的好悪(もっとも氷室は吉屋の愛読者でもあるようですが)、編集の方針といった単純な問題が大きいのかもしれません。しかし多少大きな、社会的・歴史的レベルの〈抑圧〉が氷室において働いていると考えることも可能でしょう。

時代的制限の色濃い〈吉屋的悲劇〉をストレートに描くことは、現在においては少なからず〈喜劇的〉でしかありません。我々においては、女子校恋愛物を〈悲劇〉にしてしまう〈女性の抑圧〉は、少なくとも吉屋の時代ほど露骨に存在しないからです。

とはいえ〈抑圧〉は健在です。少年ジャンプで少年たちが主人公である〈努力・友情マンガ〉を、いきなりホモだバラだと指示する論評はあまり聞いたことがありません。でも同じ内容を少女同士を主人公にして描いたら、間違いなく百合だレズだと名指しされるでしょう。なお、その場合のこの種の指示詞が往々にして蔑視のニュアンスを帯びることはいうまでもありません。

不平等はここに根深く存在します。こういう環境下では、敏感な書き手は恋愛を排除し、物語を喜劇化して茶化すか、さもなくば開き直って恋愛を悲劇で書くか。――そのあたりが、まずはありうる判断でしょう。

ところが〈スール制度〉という設定は、通常であれば排除対象にしかならない女子同士の交情関係を〈制度として存在する〉と設定することで、むしろ日常化する。日常化することで、恋愛を排除せず、かつ悲劇化する必要もなくして書けるわけです。このあたりにいろいろと大きな魅力を見つけることが可能でしょう。