〈京都=女〉による〈江戸=男〉への抵抗

そのお万の方も右衛門佐も、公家の出身として心情的に朝廷寄りであり、朝廷が幕府の風下に置かれていることに対して〈反発〉しているのですが、肝心なのはそれが必ずしもただの差別意識――無教養、粗野、成り上がりの武家に対する――というわけではない点です。

じっさい劇中で、お万の方は自らが骨折って東下させた御台所の弟・鷹司信平が、武家に対する差別意識を剥き出しにすることを、謂れのない偏見として厳しく戒めますし、右衛門佐は活気あふれる江戸の町の光景に、因循沈滞した京都にはないエネルギーを発見して魅力を感じ、大奥入りする直前、寸暇を惜しみつつ市中を観覧して回ります。

では彼女たちの〈反発〉は実質的には何なのか。文中の言葉を用いるなら、それは結局、金と権力に物をいわせて、女性を男の「玩弄物」にしてのける。そのことへの反発に他なりません。じっさいお万の方は伊勢慶光院の尼僧として見参したところを無理やりに江戸に留め置かれ、右衛門佐は将軍綱吉を抑えるためのいわば道具として大奥へ招き入れられる。

しかし彼女たちは、側室としての肉体的な関係の保持を最終的に拒絶、事務方トップとして大奥全女中に仰がれる大奥総取締となって将軍との肉体関係を断ちます。それでもなお家光や綱吉から絶大な寵愛や敬愛を受けて、大奥に君臨する彼女たちは、いわば江戸/幕府=男によって京都/朝廷=女が組み敷かれることに対して、その美貌と知性、教養と理想でもって立ち向かい、結果〈男〉を逆に屈服させてしまうのですね。その立ち向かう過程で男の「玩弄物」でしかない〈大奥〉を逆に〈女子校〉化する、――というのが『徳川の夫人たち』という歴史小説の、他に例のない特異なところなのですわ。

通常の大奥物の歴史小説ってそういうところが全くなくって、それらは結局将軍その他の〈男〉から見た評価で記述されていくだけなんですよね。松本清張『大奥婦女記』なんて――〈婦女〉なんて題名からしても――その種の典型的な例ですが。数少ない例外としては、杉本苑子『絵島疑獄』の絵島がちょっとお姉さまっぽい書き方されてるくらいしか思い出せないな。あとは宮尾登美子天璋院篤姫』も一応範囲に入れていいかもしれないですけど。