徳川の夫人とお姉さま

久しぶりに少女小説の大家・吉屋信子の『徳川の夫人たち』を再読しました。続編とあわせて四冊。吉屋がその最晩年に執筆した歴史小説です。正編では三代家光の側室、お万の方・永光院(1624-1711)、『続・徳川の夫人たち』の前半では五代綱吉の側室・右衛門佐(1650-1706)*1を主軸にして物語が展開します。

*1:「うえもんのすけ」と振るのが多いのだけど「う」は慣習上、たぶん抜けて「えもんのすけ」になりそうな気がする

女子校化した大奥

ところでさすが吉屋というべきですが、この小説における主役女性陣はいずれもみな、いわゆる〈大奥〉っぽい雰囲気がほとんどない。女同士のやり取り、ただし男との関係を主軸にした――を描くというのが〈大奥物〉の常道ですが、本作ではその「男との関係を主軸にした」という条件節がすっぽり抜けているのです。

本作においては、江戸城大奥はほとんど〈女子校〉であり、その〈女子校〉においてお万の方と右衛門佐は、公家の出身の貴人、超絶的美女であると同時に、京都流の優美さと、和漢にわたる高い教養を備えた理想の女性として〈大奥の女中たち〉から讃仰の対象になる。

お万の方や右衛門佐は、将軍の愛人としてよりも、そのような〈お姉さま〉属性において大奥に君臨しているので、この〈お姉さま〉が仕切る〈女子校〉においては将軍家光も綱吉も、本質的には部外者でしかありません。

〈京都=女〉による〈江戸=男〉への抵抗

そのお万の方も右衛門佐も、公家の出身として心情的に朝廷寄りであり、朝廷が幕府の風下に置かれていることに対して〈反発〉しているのですが、肝心なのはそれが必ずしもただの差別意識――無教養、粗野、成り上がりの武家に対する――というわけではない点です。

じっさい劇中で、お万の方は自らが骨折って東下させた御台所の弟・鷹司信平が、武家に対する差別意識を剥き出しにすることを、謂れのない偏見として厳しく戒めますし、右衛門佐は活気あふれる江戸の町の光景に、因循沈滞した京都にはないエネルギーを発見して魅力を感じ、大奥入りする直前、寸暇を惜しみつつ市中を観覧して回ります。

では彼女たちの〈反発〉は実質的には何なのか。文中の言葉を用いるなら、それは結局、金と権力に物をいわせて、女性を男の「玩弄物」にしてのける。そのことへの反発に他なりません。じっさいお万の方は伊勢慶光院の尼僧として見参したところを無理やりに江戸に留め置かれ、右衛門佐は将軍綱吉を抑えるためのいわば道具として大奥へ招き入れられる。

しかし彼女たちは、側室としての肉体的な関係の保持を最終的に拒絶、事務方トップとして大奥全女中に仰がれる大奥総取締となって将軍との肉体関係を断ちます。それでもなお家光や綱吉から絶大な寵愛や敬愛を受けて、大奥に君臨する彼女たちは、いわば江戸/幕府=男によって京都/朝廷=女が組み敷かれることに対して、その美貌と知性、教養と理想でもって立ち向かい、結果〈男〉を逆に屈服させてしまうのですね。その立ち向かう過程で男の「玩弄物」でしかない〈大奥〉を逆に〈女子校〉化する、――というのが『徳川の夫人たち』という歴史小説の、他に例のない特異なところなのですわ。

通常の大奥物の歴史小説ってそういうところが全くなくって、それらは結局将軍その他の〈男〉から見た評価で記述されていくだけなんですよね。松本清張『大奥婦女記』なんて――〈婦女〉なんて題名からしても――その種の典型的な例ですが。数少ない例外としては、杉本苑子『絵島疑獄』の絵島がちょっとお姉さまっぽい書き方されてるくらいしか思い出せないな。あとは宮尾登美子天璋院篤姫』も一応範囲に入れていいかもしれないですけど。

お万の方と右衛門佐だけが何故目立つ?

ところで最近読んだ畑尚子『江戸奥女中物語』(講談社現代新書)によると、本作における吉屋の考証というのはかなり確かだそうですが、それにしても昔から不思議に感じていたことがあって、先述のとおり本書はお万の方だけで半分。続編の上冊は右衛門佐を中心にして展開し、その右衛門佐が死去より数年後、六代将軍家宣が将軍職を襲封した正徳元年、永光院が他界する時点で終了。そのあとは一気呵成で、下冊一冊において幕末、十三代家定夫人であり徳川将軍家の最後の家刀自――家族としての徳川家を差配する〈母親〉――である天璋院が、幕府瓦解で江戸城大奥を去る前夜まで進んで、全編の物語が終わります。

要するに時代配分からいうと、あまりにもバランスを欠いている。下冊一冊だけで徳川三百年のうち二百年が過ぎてしまうわけです。

嫡庶の別の強化と〈お姉さま〉の消滅

この疑問が『江戸奥女中物語』のおかげで氷解しました。本書によると、六代将軍家宣の死去後――ちょうど18世紀に入ったところ――を境として、それまで曖昧だった将軍正夫人と側室との区別が厳格化する。それまでは正室であるというだけでは、夫が死んでしまえばそれまでで、じっさい家光夫人の本理院・鷹司孝子が逝去したとき、血のつながらない四代家綱将軍は服喪さえしなかった。これは生前に、名義上の母親である嫡母扱い――今でいうところの養子縁組をしていなかったからです。

ところが四歳で将軍となった七代家継の場合、生母(庶母)である月光院とは別に、六代家宣の正室である天英院・近衛煕子が嫡母となっていた。このため天英院は月光院が従三位に叙せられるに先立って従一位に叙せられ、家継将軍の母儀として万事に優先の取り扱いを受けるようになり、そしてこれ以降、正室が嫡母となることが慣行化します。

この変化はもう少し後になると可視的な差別――この〈目に見える差別〉というのが封建時代の本質ですが――として立ち現れるようになる。例えば家光将軍の時であれば、有名な乳母、春日局やお万の方は、本丸大奥のど真ん中で、御台所の御座所に匹敵する広さの部屋を占めていた。しかもこのとき夫と不仲だった御台所孝子は別居だったので、春日局やお万の方はまさに名実ともに大奥を差配していたわけです。

しかし江戸時代後期では、本丸大奥の〈正式な住人〉は御台所一人となります。側室は大奥本体ではなく、付属部であり、使用人たちの住居群にすぎない長局(ながつぼね)に追いやられ、しかも正式な認定を受けなければ将軍の家族扱い――〈上通り〉の扱い――さえされない。つまり子を産んだだけの道具、ただの使用人として留め置かれてしまう。じっさい私の知る限りででも、幕末、十三代家定生母の本寿院はそのように放置されたままで、入輿した天璋院夫人の勧めでやっと上通りになったといいます。

正室か側室か。――男との公認関係のみがその女性の立場を絶対的に束縛するというこの変化は、つまりは男女差別の制度的強化に他なりませんが、こういう環境ではもはやお万の方や右衛門佐のように、側室でありながら総取締として大奥の行政方にも目を光らせて、将軍からも特別扱いされるといったシンギュラリティ的な存在は、ありえなくなってしまうでしょう。つまり〈お姉さま〉を見出しうるのは17世紀までなんですね。とすれば、お万の方と右衛門佐だけで全体の四分の三が終わってしまう、一見奇矯な『徳川の夫人たち』の構成は、むしろ吉屋の鑑識眼の確かさを証するものなのだと、納得したわけです。

なお本書『徳川の夫人たち』四冊は現在でも朝日文庫で容易に入手・閲覧可能ですので、機会があったら是非どうぞ。